2006年07月14日
こんなニュースに弱いです。
<高校野球>左半身不自由の投手が1回きりの先発登板 大分
脳こうそくで倒れ、左半身の自由を失った大分県豊後大野市の県立三重高3年、広田一弥投手(18)=同県臼杵市=が、夏の高校野球大分大会で「最初で最後の」先発登板する。倒れた後も野球への熱い思いを抱きながらリハビリを重ねてつかんだ晴れ舞台。背番号1のエースは「初戦の一イニングだけ。ランナーが出たら交代」の条件で、夢のマウンドに立つ。
広田選手は右投げ左打ち。野津中3年の夏、学校で倒れ左半身不随になった。半年間入院し、リハビリとトレーニングに耐えた。130キロの速球は取り戻したが、グラブを使って左手での捕球ができないため、打球をうまくさばくことはできない。
脳こうそくで倒れ、左半身の自由を失った大分県豊後大野市の県立三重高3年、広田一弥投手(18)=同県臼杵市=が、夏の高校野球大分大会で「最初で最後の」先発登板する。倒れた後も野球への熱い思いを抱きながらリハビリを重ねてつかんだ晴れ舞台。背番号1のエースは「初戦の一イニングだけ。ランナーが出たら交代」の条件で、夢のマウンドに立つ。
広田選手は右投げ左打ち。野津中3年の夏、学校で倒れ左半身不随になった。半年間入院し、リハビリとトレーニングに耐えた。130キロの速球は取り戻したが、グラブを使って左手での捕球ができないため、打球をうまくさばくことはできない。
広田選手は小学校低学年から野球を始め、早くから才能を開花させた。中3の6月には地区の軟式野球大会にエースで出場し、約130キロの速球を武器にチームを優勝に導いた。近隣や大分市内の強豪高から注目されたのもつかの間、大会3日後に倒れた。失意の広田選手を三重高野球部の上尾隆一監督(44)が花束と硬式ボールを持って見舞った。地区大会の投球を見て「すごい」と感じた監督から「野球を続けよう」と励まされ、望みをつないで推薦で入学した。
1年時は週に1度の病院通い。ランニングもままならず、歩いて他の部員に続いた。2年になって左半身が少しずつ動くようになったが「うまくなるのか、試合に出られるのか」と不安にかられた。
新チーム結成後の昨年秋、部員全員が話し合った。「広田のやる気を引き出したい。夏の初戦を投げさせよう」と決め、背番号1を託した。「障害を克服して3年間夢を追い続ける姿に励まされた。広田の登板に不安はない」と安藤直樹主将(3年)。バッテリーを組む予定の広瀬孔亮捕手(2年)は「広田先輩のボールは重く、力強い。しっかり受け止める」と胸を張った。
登板は13日、新大分球場である第2試合の対高田高戦。「1球で終わっても、1イニングを抑えることができても、1球に込める思いは変わらない」と広田選手。プロ野球選手を目指す夢に迷いはない。倒れた時は想像できなかったマウンドへの復帰。高校最後の夏、夢への第一歩を踏み出す。【金秀蓮】
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彼の登板をたまたまテレビで見た。
一回に死球を出し、マウンドを降りた。
でもすがすがしかった。
彼以上に、すばらしいなぁとおもうのは、彼に声をかけた上尾隆一監督(44)
彼に野球を教えたのではなく、人生を教えたのだとおもう。
そんな勇気が私にはあるだろうか?
Posted by ◎×おやじ at 07:00│Comments(0)
│時事雑感
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〜ここから引用〜
高校野球 脳梗塞克服の投手が最初で最後の登板 大分大会
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